予想は証明されて定理になる

ニュートン・コードについて関連の諸資料を渉猟しているなかで、
ちあきは 谷山豊 という方の謎に充ちた 心の闇 に逢着してしまった
という思いでいます。


以下は 谷山豊さんの心の闇にいたるまでの ちあきの手控えです






ニュートン・コード

著者: 塚原 一成
発行日:H20.6.15
出版社:角川学芸出版

第1章 「地球滅亡のコード」
第2章 「知られざる顔」
第3章 「秘密結社」
第4章 「異端者ニュートン」
第5章 「神が隠した秘密」
第6章 「ニュートン・コードの真実」

ストーリーの概要
アイザック・ニュートンが書き記した、1枚の原稿が発見された!
そこに記されていたのは、"地球滅亡の年"、「地球は、2060年に滅亡する!」。
そしてその横には、暗号が・・・「ひと時とふた時と半時が始まった」。
これは、一体どういう意味なのか?
どのような根拠をもとに、2060年という数字を導き出したのか?
そして、何より本当に地球は滅亡するのか?!

真相を探ってゆくと、ニュートンの知られざる顔が見えてくる。
秘密結社、錬金術、異端者、浮かびあがる謎めいた記号。
真相は、ダ・ヴィンチ・コードの延長線上にあった!
そして、ついに、2060年の根拠が明かになる!
ニュートンは、科学のメスで人類のタブーを見つけ出してしまったのだ。それは、地球滅亡の法則。

暗号について

ニュートンが遺した手稿「ヤフダ文書」と「ケインズ文書」
・・・地球滅亡に関する手稿は「ヤフダ文書」に。
「The end of earth 2060」・・・・その前後の文章は暗号のようだ。

① 預言にある2300日は、ヤギの小さな角が生えた後に始った。
② それらの日が始ったのは、エルサレムとローマ人の神殿が滅亡する西暦70年より前のことである。
③ ひと時、ふた時と半時が始ったのは、ローマ教皇の至上権始った800年以降のことである。
④ それらが始ったのはグレゴリウス七世の治世、1084年よりも前である。
⑤ 1290日間が始ったのは、842年以降である。
⑥ それらが始ったのはグレゴリウス七世の治世、1084年よりも前である。
⑦ 1290日と1335日の差はおよそ七週間である。

この七つの暗号のような文章を「ニュートン・コード」と名づけた。

出典:歴史暗号





アイザック・ニュートン(Isac Newton、イギリス、1642年~1727年)は、
自然科学(物理・数学)史上空前の大天才である。
ニュートンに匹敵するのは、ニュートン以前ではアルキメデス(B.C287ころ~B.C.221)くらい、
ニュートン以後にはまだ出現していないのではないか。
もっとも大天才といっても、それは物理・数学の天才ということであって、
人格までが「天才」ではないのは当たり前のことである。


(1) 略伝

a.ウールスソープとケンブリッジの時代

 ニュートンは、イギリス(イングランド)のリンカーシャー地方ウールスソープという村で、
1642年12月25日のクリスマスに生まれたということになっている。
だから、一般的には1642年生まれということになる。
しかし、面倒なことに当時のイギリスは旧暦を使っていて、新暦に換算すると1643年1月4日になる。
本によってニュートンの生年が異なるのはこのためである。

 ニュートンが生まれたときに、少しは裕福といえる農民だった父親
(父の名もアイザック・ニュートン)は既に死んでいた。
ニュートン自身、未熟児として生まれて、とても育たないだろうといわれていた。
しかし実際は85歳まで生き、死ぬまで毛もあまり抜けず、歯も1本しか抜けなかった
という偉丈夫になった。

 ニュートンが3歳になったころ、母は30歳以上年上の裕福な司祭と再婚する。
再婚の目的の一つは、ニュートンの養育費を確保することにあった。
ニュートンはこのときからは母方の祖母に育てられることになる。
ニュートンが14歳になったとき、母の再婚相手が死んだので、
母はウールスソープに戻ったが、3人の妹弟も一緒だった。
子供のころに母の愛情に飢えていたことが、後のニュートンの暗く猜疑心の強い、
さらには女性嫌い(?)で異常に怒りっぽい、
そして執念深く笑いがないという性格を生んだともいわれている。

 グランサムの学校に通っていたニュートンは、
母が戻ったことで一時農業をやることになる。
しかし、農業に身が入らないのを見た母が、もう一度に学校に戻し、
学業の道を歩ませることになった。
とはいっても、当時の学校は自然科学系の科目はほとんど無かった。

 グランサムでの下宿先が薬剤師であったことが、
ニュートンを化学実験好き(錬金術=銅や鉄を金に変える研究につながる)にさせたのかもしれない。
ともかく当時から手先は器用で、
下宿先の女の子のためにいろいろなものを作ってあげていたようだ
(一時は婚約までしたという仲になる)。
この薬剤師の家での経験から、ニュートンは終生、薬は自分で調合していたという。

 ニュートンは1661年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学する。
身分は給費生(授業料免除の替わりに大学の雑用をする)だった。
もちろんふつうの学生もいるわけで、こうしたことがニュートンの暗い性格をさらに暗くしたともいわれている。
几帳面な性格なので、当時こまめにつけていた出納簿(小遣い帳)なども残っている。
それによって、トランプで負けてお金を取られたこと、
逆に級友にお金を貸したこと(利息を取っていた?)なども明らかになっている。
もちろん、工具や薬剤なども購入している。

 大学3年生(1663年)のころから、ニュートンは独自の勉強・研究を始めたようである。
既に光学への言及も始まる(自分の目を使って危ない人体実験もしている)。
数学の本格的な勉強もこの頃からで、翌年にはもう当時のトップレベルに達している。

 ちょうどこの頃イギリスでペストが大流行する。大学も1665年8月に閉鎖される。
ニュートンが大学を卒業したのは、その年の1月。
ニュートンは1665年6月から1667年3月まで故郷のリンカーシャーに避難することになる
(正確には、1666年3月末から、ペスト再発で大学が再閉鎖される1666年6月末まで
一時ケンブリッジに戻っていたらしい)。

 この故郷にいた1年半が「驚異の年」といわれている期間である。
ふつうの人なら、学校が閉鎖されれば喜んで遊びほうけるところである
。ニュートンももちろん大学が閉鎖されて喜んだであろうが、
それは自分の自由な時間、すなわち研究・思索に没頭する時間が確保できたからである。



1669年から1672年にかけての講義が、後の「光学」(1704年)のもとになる。
本当はこの時期に「光学講義」として出版したかったようだ。
ニュートンはこの頃、反射望遠鏡も自作している。
この望遠鏡は大評判となり、これがきっかけで1672年にロンドンの王立協会(1660年創設、初めての「学会(学界)」といってもよい)の会員に選出された。
ここで、最初のライバル、ロバート・フックと対することになる。

  王立協会員になったニュートンは、さっそく自分の光の理論を
王立協会で発表しようとした。
ニュートンの論文を読んだフックは、これらはすべて既に自分が考えたことで、目新しいことは何もない。
まちがっているところもあると論評した。
以後、ニュートンとフックの光学論争は4年あまりも続くことになる。
ニュートンは自分の学説がすんなり発表できなかったことで、
その後研究の公表には異常に慎重になる。

 このときのニュートンからフックに宛てた手紙(1675/76年=旧新暦のずれ)の中で有名な、「もし私が、より遠くを眺めることができたとしたら、それは巨人の肩に乗ったからです。」がある。
これは、表面的にはニュートンの謙虚さを示すものではあるが、
背骨の曲がった醜い小男フックを揶揄するものであるという解釈
(フックの肩には乗っていないという解釈)もある。

 なお、「巨人の肩に云々」という表現は、
当時の一般的な成句(科学翻訳家・青木薫氏のページ参照)で、
ニュートンが初めて使った言葉ではない。

 1679年、フックはニュートンに王立協会に再び論文を寄せて欲しいという手紙を出す。
この中で、フックは自分が考えた惑星の運動についての理論についての評価を求めた。
ここからニュートンvsフックの第2ラウンドが開始される。

 この年にニュートンの母が死んでいる。
そして、13年半ぶりに力学の研究を再開したニュートンは
(遺産処理などの雑務もすんで、余裕ができたらしい)、
昔データ不足で検証できなかった逆2乗則(万有引力の法則)の検証に成功する。
一方、1684年1月、フックはハレー(イギリス、1656年~1743年)たちに、
逆2乗則で惑星の運動を説明できると伝えた
(この頃既に、王立協会内ではケプラーの第3法則から逆2乗則が導き出されることは
共通の了解事項になっていたともいわれている)。
5月にハリーはニュートンに会って、
逆2乗則が成り立っているとき惑星はどのような運動をするかを訪ねた。
ニュートンは即座に“だ円”と答えた。
昔、その計算をやったことがあるとも。
ハリーは驚き、それをまとめるように要求した。

プリンピキアの第1部となるその年(1684年)の講義録が、
ハレーに送られてきたのは11月である。

ニュートンより14歳も若いハリーは、
フックとの対応でいらだつニュートンをなだめすかし、資金も提供して、
「プリンピキア」(自然哲学の数学的原理)の執筆・完成を促す。
1年半かけて執筆されたプリンピキアは、1687年に刊行された。
この執筆に没頭した1年半は、「驚異の年」(1665年~1666年)の再現ともいわれる。

 フックはその間も、逆2乗則の先取権を主張する。
ニュートンはフックへの対抗心からも、また先取権を明白にするためにも、
プリンピキアを書いたともいわれる。
フックは、プリンピキアが刊行された1687年以降、
急速に生彩を失い、1703年に死んでしまう。

 こうしてニュートンは、フックとの戦いをその頑強な体(生き残り)で勝利することになる。
フックの死後、王立協会の会長になったニュートンは(1703年)、
王立協会も引っ越させ、たった1枚しかないといわれているフックの肖像画も破棄し、フックが開発した科学機器もすべて処分した。
ようするにフックの痕跡をすべて消し去ろうとした。
フックが死んだあとも、フックの名が出るだけでニュートンは異常に興奮したという。

 この頃イギリスでは、宗教の面でゆれていた。
カトリック教徒のジェームス2世が国王になると(1685年)、
イギリス国教派の弾圧が始まる。
ニュートンはピューリタン主義者(反カトリック主義者、政治的にはホイッグ党派(今の保守党)、
さらには公になると異端の烙印を押される反三位一体主義者(キリストを神の子と認めない)だったらしい。)
だから大変である。宗教裁判に出向き、あくまでも国王との妥協を拒否する。

b.ロンドンの時代

 このときの活躍が認められたのか、ジェームス2世が去ったあとニュートンは大学選出の国会議員となり(1689年)、ロンドンに移る。もっとも国会議員はこのときの1期だけだし、議員としての発言は「ちょっとそこの窓を閉めて欲しいorあけて欲しい。」だけだったそうである。それはともかく、このときのロンドン生活の経験から、静かな大学町ケンブリッジに戻る気を無くしたようだ。

 科学者として盛名をはせたニュートンのまわりには、ニュートンを慕った若い人も来るようになる。例えばファシオ・ド・デュイリエ(1664年~1706年?)。しかし彼はライプニッツとの争いで火に油を注いだり、後にカルト集団に心酔してしまう。このへんも、科学に興味を持った若い人が、何かをきっかけにあっさりとカルトに走る今日の状況と変わらないかもしれない。

 ニュートンの精神状態が怪しくなるのもこの頃からである。ケンブリッジを離れ、ロンドンに職を求めようとするがうまくいかない。こうしたことを、本当はニュートンのために動いてくれている友人(哲学者ロック(1632年~1704年)や、「日記」で有名な元海軍大臣ピープス(1633年~1703年))たちのせいだと邪推するようになる。ニュートンの光学の研究の手稿を、学生が誤って燃やしてしまったために、発狂したという噂も流れる。ニュートンの遺体の毛髪から、高い濃度の水銀が検出されるので、当時凝っていた錬金術でよく使う水銀の毒にやられていたのではないかという説もある。1693年ころの精神状態が一番悪かったようだ。強度の鬱病になっていたという可能性が強い。

 だが、かつての教え子でもあるモンタギュー(1634年~1682年)が若くして大蔵大臣となり、彼が造幣局監事の仕事を持ってきてくれる(1696年)。さらには1699年には造幣局の長官(すべての官僚の中で最高給の職、年収2,000ポンド以上、これってどのくらい?)になる。このときも、ニュートンと同居してた美人で評判の魅力的な姪(異父妹の娘、キャサリン・バートン)とモンタギューが愛人関係にあり(これは事実らしい)、そのつてで造幣局の職を与えられたという噂も流れ、ニュートンは激怒する。造幣局長官としての仕事は下を参照。

 1703年に王立協会の会長にもなったニュートンは、死ぬまでその地位にいた。さらに1705年、ニュートンは爵位(サー・アイザック.ニュートン)も得た。ニュートンが王立協会の会長になると、王立協会も自由な雰囲気が無くなり、規則づくめの堅苦しいものになった。上に書いた王立協会の引っ越しも、ニュートンの独断で、強引に決められたものである。フックの残滓を払拭するためであったかもしれない。ニュートンの死後、王立協会の会長になった人(ハンス・スローン)は、すぐに堅苦しい規則を廃止したという。

 ニュートンはその政治力で、各大学に自分の息がかかった人間を送り込んでいった。こうして、イギリスの科学界に君臨することになる。ニュートンの逆鱗に触れると大変であった(怒りっぽいニュートンとうまくやるのはとても大変)。

 このころ、微分積分の先取権をめぐって大陸のライプニッツ(ドイツ、1646年~1716年)と、月の観測データをめぐってイギリスのフラムスティード(1675年~1719年)との戦いが始まる。

  ライプニッツの微分積分法の発表が1684年、ニュートンのプリンピキアは1687年である。ニュートンが微分積分を開発したのは「驚異の年」の1666年頃であるが、この時点では公表していない。でもニュートンは、ライプニッツが何らかの方法で自分の微分積分法を盗んだと思いこんでしまったのだ。

 もっとも既に大物のニュートンは表には登場せず、上に書いた弟子のフォシオ(ファシオが二人の対立を煽った側面もある)や、ニュートンの息のかかったキールやクラークを使って(場合によっては彼らの名を騙って)、ライプニッツを攻撃する。ライプニッツも負けてはいない。第3者のなかにはおもしろがって、二人の対立を煽る者(ヴェネツィアの貴族コンティ)まで出てくる始末。

 しかしこの不毛の戦いも、またしてもニュートンのその頑強な体(生き残り)で勝利する。つまり、1716年に論争相手のライプニッツが死んでしまったのだ。だが、下に書いたように現在では、微分積分の記号はライプニッツが考えた記号のほうが使いやすいので、その記号が使われている。

 ニュートンがフラムスティードに求めたのは、月の観測データである。ニュートンは自分の月の理論を完全なものにしたかったのだ。ニュートンは最初は丁重に要求したが、もう少し観測精度を上げてから、しかも自分の手で公表したいフラムスティードはこれを拒否する。ニュートンは次第に高圧的になり、最後はその政治力でフラムスティードの観測データを、ハリーによって強引に出版(「英国天文誌」)させた(1707年or1712年)。69歳の王立協会会長ニュートンと、65歳の王室天文台台長フラムスティードが直接対峙し、怒り狂ったニュートンがフラムスティードに罵詈雑言を浴びせる場面もあったという。

 この「英国天文誌」はハリーのデータも付け加わっており、全体として精度が落ちたものになった。フラムスティードは失意のうちに死ぬ(1719年)ということになる。
 ここでもライバルの死によって、ニュートンが勝利する。

 ニュートンは80歳を超えても体力・気力は衰えず(結石で悩んでいたくらい)、死ぬまで王立協会の会長と造幣局長官を勤めた。最後の出席となった1727年の王立協会の席で、85歳のニュートンは71歳のハリー(第2代王室天文台台長になっていた)を、観測データをきちんと報告していないと叱りつけたという。そして、ニュートンはその半月後に発作を起こして死んでしまう。巨額の遺産が残った。もっとも、投資に失敗して多額の損失を出したこともある。

(2) 仕事など

a.科学

 公表の時期は異なるが(だいぶ後になるが)、基本的には「驚異の年」(1665年~1666年)に考え出されたという。

・ 力学:運動の3法則と万有引力の法則
運動の第1法則(慣性の法則):外部から力を受けなければ、静止したままか、等速直線運動を続ける。
運動の第2法則(加速度の法則):物体が受ける力(f)は、物体の質量(m)と加速度(a)の積に比例する。f=ma。
運動の第3法則(作用反作用の法則):物体Aが別の物体Bに力をかけると、物体Aは物体Bから同じ大きさで向きが逆の力を受ける。
 ※ 他に力の合成分解は平行四辺形の法則に従うことも明らかにしている。

万有引力:質量Mとmの物体が、距離r離れているとき、二つの物体の間には万有引力f=GMm・r-2(質量の積に比例して、距離の二乗に反比例する)が働く。このときの比例定数Gを万有引力定数という。質量をkg(キログラム)、距離を(m)で測ったときのGの値は(6672.59±0.30)×10-14m3・s-2・kg-1となる。(数値は理科年表2003(丸善)から)
 ニュートンの態度は「力の自然学的な原因や所在を考察しているのではない。」「力は自然学的にはではなく数学的にだけ考えねばならない。」、つまり「私は仮説を作らない。」というものであった。それは「万有引力の本質は何か、万有引力は空間をどのように伝播するのか、万有引力は何を媒介として対称物体に届くのか。」という疑問は捨象するという態度である。
   

・ 光学(光の粒子論)
白色光がすべての色の混合であること、白色光はプリズムによっていろいろな色に分割でき、色によって屈折率が違うことを明らかした。そして、これを「粒子」の立場から説明したが、彼自身が発見した「ニュートンリング」(干渉の周期性)はうまく説明できなかった。応用ではレンズでは色収差が無くならないことから、反射望遠鏡を作った。
※ 光はエーテルの中を伝わる波であるというフックやホイへンス(オランダ、1629年~1695年、振り子時計の改良でも有名)と厳しく対立した。結局、20世紀初頭、光は波動と粒子の二面性があることが明らかになった。
   
・ 微分積分法
ニュートンは曲率法と呼んだ。曲線の接線の求め方(微分法)、曲線で囲まれた部分の面積の求め方(積分法)を開発し、それらが互いの逆演算であることも見つけた。自分で研究した運動の法則の手段という側面が強い。運動でいうと、移動距離を時間で微分すると速度、速度を時間で微分すると加速度が得られる。逆に、加速度を時間で積分すると速度、速度を時間で積分すると移動距離が得られる。
※ 上に書いたようにライプニッツも独立に微分積分法を発見し、そして、現在使われている微分積分の記号(微分のd、積分の∫)はライプニッツのものである。ライプニッツは幾何学的興味から微分積分法を開発したといわれている。

b.造幣局長官

 ニュートンの教え子でもある大蔵大臣モンタギューとしては、既に科学の世界で名声を得ているニュートンに、名目的な職を与えて収入を確保させることが目的だったようである。しかし、もともとこういうことが好きなニュートンは、まじめに造幣局監事・長官の仕事(?)をやってしまう。ニュートンがもっとも力を入れたのが、当時横行していた偽金づくりの摘発である。造幣局長官みずからが、逮捕された容疑者を尋問するのである。1698年から1699年にかけての19か月で、127日間もそのために出勤したという。偽金つくりの中でも大物チャロナーを、ニュートン特有の執念深さで追いつめていく。裁判では頑強に偽札つくりを否認したチャロナーは(ニュートンはチャロナーの配下をスパイに使って罪状を暴いた)、絞首刑になるときに、裁判では所有を否定していた偽札つくりに使った銅板をニュートンに贈ったという。

 のちの1717年、イギリス政府はニュートンの助言に従って、1ギニー金貨=21ペニーシリング銀貨というレートを定めた。この金と銀の比率は、ニュートンの力学が相対性理論によって修正されるまで、つまりニュートンの宇宙体系と同じくらいの期間通用したといわれる。

 ともかくニュートンは造幣局の仕事を愛しており、お札のデザインなどもみずから手がけたり(偽札ができないような複雑・精巧なデザインを考えた。もともと望遠鏡や実験器具の自作はお得意の手先は器用な人だった。)、政府が研究の時間を保障するために年金を支給するからと引退を示唆したりしても、ニュートンはそれを拒否して、結局死ぬまでその職を続けた。


c.その他

 近代科学の方向性を決定づけたニュートンは、また中世の人でもあった。

・ 錬金術
 ニュートンは錬金術に凝っていた。
錬金術とは鉄や銅などのふつうの金属を金に変えようとするものである。
ケンブリッジに住んでいたころ、ずっと錬金術にはまっていたことが知られている。
それも、プリンピキア執筆のころ(1686年~1687年のころ)にもっとも熱心だったらしい。
当時は実験の生成物は舐めることが常識だった。
そして、錬金術には水銀がよく使われる。
ニュートンの遺髪から水銀が高濃度で検出されたことはこれを示す。
当時、化学実験で生成されたものを舐めることは常識だったのだ。
上に書いたように、1690年代の精神的錯乱は水銀中毒の可能性もある
(が、すっかり直ってしまうのも不思議、抜群の体力?)
  
・ 聖書年代学と宗教観
 聖書の記述を丹念に読み、そこに書かれている出来事が“いつ”のものかを計算する。
 ただし、天地創造が4000年前ということが前提。
 ニュートンは熱心なキリスト教徒であった。
 しかし、正統派の三位一体説(神と子(キリスト)と聖霊は同一とする)に対して、
 キリストの神性を認めないユニテリアンだったらしい。
 これは“異端”あり、それがばれたら公職には就けなかったであろう。


出典:ニュートン略伝






谷山・志村の定理

谷山・志村の定理(たにやま・しむらのていり、Taniyama-Shimura theorem; モジュラー性定理ともいう)とは、「すべての楕円曲線はモジュラーである」という数学の定理である。これは、「ある楕円方程式のE系列は、どれかの保型形式のM系列である」とも言える。提出された時点では、未証明の予想にすぎなかったので、「谷山・志村予想」と呼ばれた。フェルマーの最終定理の証明とも関連する。

意味

谷山・志村定理(または谷山・志村予想)の意味は、「楕円曲線論」と「保型形式論」という異なる二つの分野で用いられる特殊な概念が同種のものである、ということである。この二つの分野のそれぞれの概念はまったく別のものだと思われていたため、予想が提出された当時では、これはとても衝撃的なことだった。

二つの分野の別の概念が同種のものだとすれば、そこには何らかの深遠な真実がひそんでいることになる。それゆえ、この予想は、通常の定理のように一つの分野だけの問題ではなくて、数学における広範な真実を告げる重大な問題だと理解された。たとえ証明はまだなされていないとしても、その重要性は普通の定理を上回った。そして、その解決(つまり証明)が、是非とも達成すべき目標とされた。

経緯

谷山・志村予想は、1955年9月に日光の国際シンポジウムで谷山豊が提出した、いくつかの「問題」を原型とする。それらの問題が互いに関連しているらしいことは谷山も気付いていたが、実は同じ命題の言い換えであることが後に判明した。谷山自身は若くして自殺したため、最終的な形は谷山の盟友である志村五郎によって定式化され、長らく「谷山・志村予想」と呼ばれていた。

内容的に「ゼータの統一」というテーマを扱う豪快な予想であり、数論の中心に位置するものの一つと目されるまでにいたったが、攻略自体は絶望視されていた。1984年秋、この予想からフェルマーの最終定理(フェルマーの大定理、フェルマー予想)が出るというアイディアがゲルハルト・フライにより提示され、セールによる定式化を経て(フライ・セールのイプシロン予想)、1986年夏にケン・リベットによって証明されたことにより俄然注目を集めたが、アンドリュー・ワイルズを除いては、まともに挑もうとする数学者は依然として現れなかった。

アンドリュー・ワイルズ(Andrew Wiles、プリンストン大学教授)により、この予想はまず半安定な場合について解決された(1993~1995年)。ワイルズが1993年に発表した証明には一箇所致命的なギャップが存在したため、その修正に当ってはワイルズの元教え子であったリチャード・テイラーも貢献した。1994年9月、ワイルズはギャップを回避することに成功し、修正された証明は翌1995年に2編の論文として出版された。このことにより、ワイルズは谷山・志村予想の系であるフェルマー予想をも解決した。

一般の場合についてはリチャード・テイラー(Richard Taylor, ハーバード大学教授)、ブライアン・コンラッド(Brian Conrad, ミシガン大学教授)、フレッド・ダイアモンド(Fred Diamond, ブランダイズ大学教授)、クリストフ・ブレイユ(Christophe Breuil, IHES長期研究員)の4人による共著論文On the modularity of elliptic curves over Qにより肯定的に解決された。

実力者アンドレ・ヴェイユが西洋で発表したので「谷山=ヴェイユ予想」「ヴェイユ予想」と呼ばれることもある。(ただし、普通ヴェイユ予想といえば非特異代数多様体上の合同ゼータ関数に関する予想のことである。)

なお志村は『記憶の切絵図』(筑摩書房、2008年)のなかで「有理数体上の楕円曲線はモジュラー関数で一意化される」という命題を「私の予想」と呼んでおり、谷山が1955年に提案した問題とは無関係だとしており、次のように述べている。「私はこの問題に関する限り谷山と議論したことはない。・・・私は私流の理論をひとりで構築していたから、彼のこの言明には全く重きをおいていなかった。・・・私は谷山と共著の本があるが、それは全く無関係である。」「以上事実を書いた。これについて何か言ったり書いたりしようとする人は、これだけのことを知って私の仕事をしらべた上での事にしていただきたい。」(p.250-1)と述べている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








プロフィール

ちあき

  • Author:ちあき
  • 白線同盟駆坂あかね様
     御賜物<KAREN>

     『 0 』 ( 2013.07.05 )

    作曲・MIDI制作 嶋 是一さん



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