1862年 十七歳   今更に 人をも 身をも うらままし 

2月11日 


文久2年の この日

徳川家茂と和宮の婚礼の儀 

 和宮は17歳でした。



今更に人をも身をもうらままし かずならぬ身を ひとりかこたん 


もう今更 何かを恨むのも やめよう ただこのように
他人の意思でどうにも変えられてしまう自身の運命を 嘆くだけ

というほどの謂でしょうか。



降嫁道中歌 2首
 
落ちて行く身を知りながら紅葉ばの人なつかしくこがれこそすれ

住み慣れし都路を出でて今日行く日いそぐもつらき東路のたび


討幕勢力征伐のため在阪中の夫 家茂は急死しますが、

和宮のもとに ある品が とどけられました。
    
それは土産の希望を尋ねた夫に ふと ねだった西陣織でした。

その西陣織を胸に 一人部屋にこもり泣いたと伝わっています。




空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ


その後 自らこの西陣織を手放しました。


世の中の 憂てう憂を 身ひとつに とりあつめたる 心地こそすれ


その大切な思い出の西陣織で袈裟を作り、
ゆかりの寺に寄進しました。

着るとても 今は甲斐なき 唐ごろも 綾も錦も 君ありてこそ








明治3年(1870年)1月25日、和宮は 念願の仁孝天皇陵への参拝を果しました。


和宮はその後も京都に在住しましたが、先年の東京行幸(事実上の遷都)後、
東京に住まう天皇や橋本実麗らの勧奨もあり 再び東京へ戻るのですが、

今まで辞退していた「二品((にほん)」に叙せられ」、内親王の位階も定まり、
夫家茂の墳墓の地を終の住まいにすることは、貞節の道を全うすることになる(辻ミチ子著 「和宮」)、

「後世迄 潔名を残し度候」(静観院宮御日記)と、

生まれてきたからには、後世に清き名を残すことこそが、女の一分である(辻ミチ子著 「和宮」)と、

明治7年(1874年)7月に 東京に戻りました。


麻布市兵衛町にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、
皇族や天璋院・家達をはじめとした徳川一門など幅広い交流を持つようになったといいます。


しかしこの頃より脚気を患い、
明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり
箱根塔ノ沢温泉へ向いました。
転地療養先では地元住民との交流も行われたと云われております。

程なく明治10年9月2日、
脚気衝心のため療養先の塔ノ沢でお亡くなりになりました。32歳という若さでした。

当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、
和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、
仏式で行われたのでした。







和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は現在の東京プリンスホテルの場所にありましたが、
1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、
和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬されました。

その際の調査結果をまとめた『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』によると、
和宮は身長143cm、体重34kg(いずれも推定)であり、
骨格の形状から極端な反っ歯と内股が特徴の小柄な女性であったと推定されています。

また、不思議な事に左手の手首から先の骨がいくら探しても見つからず、
増上寺にある和宮の銅像も左手は不自然に隠れている事から、
彼女が生前、何らかの理由で左手首から先を欠損していたのではないかという説もあるようです。

古墳はともかく、陵墓や陵墓参考地の大半が宮内庁の方針により事実上の学術調査不可となっている現在、
和宮は墓所が発掘調査された数少ない皇族です。

和宮の棺からは、直垂姿をした若い男性の写真乾板が副葬品として見つかりましたが、残念なことに、その後の保存処理が悪かったため、翌日には乾板はただのガラス板になってしまいました。

この男性の正体は未だに不明---謎なのですが、死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられる、夫の家茂である可能性が強い といわれています。

あるいは婚約者だった有栖川宮熾仁親王ではないかとの指摘もあります。

近年 和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折、
小坂家の写真師が撮影した和宮の写真が発見されました。

和宮軍扇写真




これはポジのガラス乾板で軍扇に収められており、
複写したものを小坂家末裔の小坂憲次より、阿弥陀寺に寄進されています。

この写真の和宮からは、袿の袖から僅かに両手の先を出している姿が確認できます
(但し、この写真に写っているのは本当に和宮なのか と言う説も存在しています)。






在京の頃の歌風と比べ、東下後の歌風は、「雅」がまるで感じられず、
まるで別人に取って代わったと言ってもいいような変化
(それも、素人あるいは、一般庶民のような野臭い歌風に急変したとする)であるために、
それをもって、替え玉であると言うことを唱える人も います。

また、和宮の実際の素顔を知っていた数少ない人の内、島田正辰がいますが、彼は暗殺されました。

彼の暗殺については 八木清之助の書物に記されていますが、そのなかに
この八木清之助が 自害した和宮の体を 京都の八木家のお墓に納めたというくだりがある とのことですが、
実読できてません。

その他、有吉佐和子などが、替え玉説をモチーフに小説『和宮様御留』を書いています
(上記の説とはまた違った説を用いている)。


しかし遺骨などの調査から、当時の一般市民とは異なる上流階級女性独特の体躯であったことが判明、
替え玉説は後世の流布である可能性が極めて高い といえます。




本項は 辻 ミチ子著「和宮」(ミネルヴァ書房)に 和宮内面の移ろいについて 教えられるところ大でした。

P164 後段を読み、おもわず ”おぬしも役者じゃのう”と ひとりごちて しまいました。

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